食材を知る旅(6) ~1989年冬の始まり。トーマスとモニカの兄妹に寄せて(後編)~
1989年冬の始まり。トーマスとモニカの兄妹に寄せて(後編)
東西ドイツは「ひとつのドイツ」として統一するのか?
その結論は翌年、ヘルムート・コール首相(西ドイツ・当時)と東ドイツの占領権を所有するソビエト連邦のゴルバチョフ大統領(当時)による、カフカス地方の山村アルキスでの交渉会談の時を待たねばならなかったのです。
1989年って他にはどんなニュースが話題になったのでしょう?
日本では昭和天皇がご逝去、年号が新たに「平成」となりました。
それからこの年、我が国では消費税がスタートいたしました。
中国ではあのおぞましい流血の天安門事件!
実は、旧東ドイツでもベルリンの壁崩壊の数週間前はものすごくめまぐるしく、その日常から目が離せないくらいの激動だったのですよ。
東ドイツの国民は、何度も決起して「出国の自由」を求めて訴えを繰り返します。
かつてヨハン・セバスティアン・バッハが教鞭をとった町、ライプツィヒを知っていますか?
ベルリンの壁崩壊に先立ち、7万人の大規模なデモが行われたのです。
あわや天安門の流血騒ぎの再来か?
東ドイツ政府(社会主義統一党)はこの7万人にも及ぶデモ隊を封じ込めるために、時に暴力や弾圧も厭わない・・・
そうして政治収容所のリストが作成され、各病院には救命の用意を指示し、保存用の輸血のための血液が準備されました。
でもこの大規模なデモは平和裏に終わったのですよ。
その理由は、デモ参加者たちが「規律ある抗議と非暴力」を貫き、権力者たちは逆に当惑し態度が煮え切らなかった・・・
だから何の鉄槌も下せなかったのですよ。
本当に壁崩壊までのおおよそ1か月くらいでしょうか?
もう激動だったように思います。
例えば、ハンガリーとオーストリア国境にあるバリケードが一時的に撤去されると聞くや、旧東側の何十万人もの人々はその時を待ちわびて、バリケードの前で「出国の自由」を夢見て野外キャンプを張ったのです。
情報が入り乱れるそんな中、旧東側の人々はより正確な情報を求めて、当時のチェコスロバキアの首都プラハにある西ドイツ大使館の敷地で、実に4000人を越える人が野宿を始めるのですよ。
この「出国の自由」を夢見たキャンプはとにかく最悪な衛生状態を迎え、あろうことかこの映像が世界へ向けて放映されたのですよ。
この状況をどのように解決へ導けばよいのか?
西ドイツの外務大臣ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー(当時)と、東ドイツ外務大臣オスカー・フィッシャー(当時)はニューヨークで会談をするのです。
そうして双方はここで、“プラハの西ドイツ大使館へ逃亡した人たちは、列車に乗って東ドイツ領を通過して出国する“という合意に達します。
ただ東ドイツは体面を保つため、「出国」ではなく「追放」という言葉を使うのですが・・・
「東ドイツからの出国許可」
この時、公の場で初めてこの言葉を聞きました。
そうして、プラハの西ドイツ大使館で野宿を強いられる人たちの前で、この報告を告げる日がやってきます。
このメッセージを告げるのは、西ドイツの外務大臣ゲンシャーの役割。
4000人を超える野宿をしている人たちに対して、外務大臣ゲンシャーは大使館のバルコニーから責任感を持ってゆっくりとスタンドマイクに歩みより、こう告げたのです。
「我々は皆さまが出国できるという歓びをお伝えするためにこちらへやって参りました・・」
途端に雄叫びのような歓声!
狂気!
涙の混じった声にならない声!
もう、マイクを通してもゲンシャーが何を話しているのか・・聞こえないのですよ。
だから、同時通訳の人も絶句!
これがゲンシャーによる未完の幻のスピーチ。
そうして、そこに居合わせた人々の西ドイツ国歌の大合唱。
筋書もあらすじも予想できないそんな状況にテレビ各局は大慌て。
主権国家としての統一ドイツは、実際には翌年の1990年を待たねばならなかったのですが、壁崩壊に至るわずか数週間は本当にドラマティックでした。
そうやってこの年は、欧州現代史における新たな1ページの幕開け。
私はようやく海外添乗への覚束ない一歩を踏み出したばかりでした。
一念発起で申し込んだ欧州添乗の実地研修を数か月後に控えておりました。
そんな時期でしたから、特に欧州のニュースや話題については何にでも関心を寄せました。
ある日曜日の朝。
仕事もお休みでいつもより遅めに起きて、まずは郵便受けに朝刊を取りに行きました。
日曜版ってずっしり重いや・・・新聞に様々な広告その他が挟まれています。
日曜日の朝刊って時として面白い読み物があったりします。
あの微かなインクの香りかな・・・お休みの日にページを手繰る“あの感じ”は、情報源の主導がペーパーレスに映ろうとする今でもちょっと特別な感じ・・・って思います。
丁寧に1ページずつめくっていきますと、「壁崩壊後のドイツはどのように変化を遂げていくのか?」という見出しに思わず目が留まりました。
日本の新聞社が、旧東ドイツで暮らした人たちにインタビューをするという形式を記事にしたものだったのです。
そんな中に、まだ若いトーマスとモニカという兄妹にインタビューをした記事にことさらの関心を寄せました。
そのインタビュー内容から伝わってくるお二人の誠実さ。
はたまた、それを伝えた記者の方のお仕事ぶりに惹かれたのです。
兄トーマスはアルミニウムの原料を製錬する工場に勤めています。
そして妹のモニカは学生さん。
トーマスとモニカ、そして彼らのご両親が暮らす東ベルリンの郊外(だったと思う)のお住まいにお邪魔して行われたインタビュー。
ベルリンの壁崩壊。
ようやくの出国の自由。
そして今の暮らし。
彼らにとって、何が変わって何が変わっていないのか・・・
そうしてこの先、どんな未来に導かれていくのか。
淡々と、時に熱意をこめて語られるこれからのドイツ。
11月も終盤となりますと、駆け足でやってくる夕暮れ。
午後4時になるかならないかのうちから街灯がともります。
そうして記者がインタビュー協力へのお礼を言い、帰り支度をはじめます。
不意を突いて兄妹のこんな会話が聞こえてきます。
それは、“たった1本のバナナ”についての兄妹のやりとり。
兄トーマスが「お前が食べなよ」というと、妹モニカは「ううん。いいの。お兄ちゃんが食べて」。
“たった1本のバナナ”を譲り合う兄妹。
日本では安価な部類に入るはずの果物ではないか。
そうなのだ。
旧東ドイツの人たちにとっては高級な果物なのだ・・・その一言がグサッって胸に突き刺さりました。
私は、これから世界の様々を見聞し、自分の眼でみて「知ること」を積み重ねたい。
そう思いました。
今でもバナナをみると思い出すことがあります。
遠い異国で暮らすであろうあの兄妹にも訪れたあの激動。
未来は決して確約はできずとも、微かにいだいた希望の蕾。
インタビューで答えていた真摯な思い。
それらを思い出します。
そんな日曜版の新聞の折り込み記事を読みふけっていたら、直に坐したフローリングの床から伝わってくる冷気。
冬の始まりを思う、33年前の日曜日の朝でした。
《1989年冬の始まり。トーマスとモニカの兄妹に寄せて 完》