地図から妄想する旅の愉しみ(3)
アルハンブラの思い出①
さて、イベリア半島を砂埃上げて進むとき、その行く先々の愉しみとはどんなところにあるでしょう?
お食事!? それも確かにそうですよ。
スペインにおけるあの食材の豊富さと調理の多様さ!といえば、旅の愉しみの最もたるものです。
魚介からお野菜からお肉から、色々食材が豊富ですよ!
例えば牛肉ならば睾丸(失礼!)ですらおいしく調理するのですから。
特にこれからの寒い季節、市場の食肉店には所狭しと食材が並びます。
いわゆる狩りの獲物、ジビエってやつですよ。
雉科の鶏肉(ぺルディスだったか?)そんなのも猟解禁の季節だし、あとはヨーロッパの食肉店で兎が皮も剥がされずにそのまま原型で売られているのを見たことがありますか?
兎が原型のままで店頭にぶら下げられているのを見ると、ツアーのお客様たちは「うわァ、見たくない見たくない・・・」ってご感想です。
何故、食用兎は皮も剥がさずほぼ原型のままで売られているのか?
それには理由があります。
それはですね。コホン。
野生の兎は高級な食材で冬のごちそうだからですよ。
「ほうら。お客さん。正真正銘の野兎の肉でございますよォ。いかがですゥ?」
とかそんな事言いつつ「猫の肉」を売りつける不届きものもいたのだとか・・・。
皮をはいでしまったら猫の肉だか兎だかわからなくなるでしょ?
だから市場で見かける兎は皮すら剥がさない・・・。
お肉も様々なものを食するけれど、野菜だって豊富だし魚介類だって美味ですよ。
鰻を食するのは我々日本人だけだって思い込んでいたりしません?
スペイン人は鰻を食べますよ。
でも鰻の稚魚を土手鍋みたいなので煮て食べるのですよ。
イベリア半島にはすぐお隣の国、ポルトガルも含んで様々な食材と調理法が存在するけれど、そのいくつかは北アフリカの民、イスラム教を日々の暮らしの知恵とする人たちが持ち込んだものもあるのです。
例えばなすび。
なすびは北アフリカからイスラム文化が入って来た時に一緒に持ち込まれました。
それからオレンジ。後は玉ねぎだって北アフリカからの入植者たちが持ち込みました。
スペインとは1人当たりの玉ねぎ消費がとっても多い国。
あのドン・キホーテだって、放浪の旅の最初の一夜の夕食はパンのかけらと大蒜と玉ねぎではなかったか?
イベリア半島の悠久の歴史に少しでも思いを寄せてみようとするならば、いったいいつ頃からイスラムの教えに導かれた民はイベリア半島で暮らしを送ったのであろうか。
それは西暦711年に遡ります。
という事は、日本の都が奈良の平城京にあった頃でしょうか?
イスラムの教えとは、砂漠の民の暮らしの知恵でもあり、神アッラーの啓示を授かったというサウジアラビアの名門氏族ムハンマド(ムハンマド=イブン・アブドゥッラーフ 570年頃~632年)という人物を始祖といたします。
我が方の歴史で言えば、聖徳太子(574年~622年)とほぼ同時代の人でしょうか。
彼が言うアッラーの啓示はサウジアラビアのメッカを拠点とし、彼の死後、その後継者たちははるばるビザンティンの領土シリアを攻め落とし、遊牧民ベドウィン族を味方につけたならば武力を固め、そうして僅か100年で北アフリカにまでその教えを広めたのですよ。
イスラムの教えから砂漠の暮らしの様々を受け継いだ北アフリカの民は、今度は海峡を越えてイベリア半島への入植を虎視眈々と狙うのです。
そこへ渡りに船。
当時のイベリア半島はローマ帝国の覇権が及ばなくなって久しく、北ヨーロッパから押し寄せた様々なゲルマン諸部族やスカンジナビア半島の民らが拮抗の凌ぎを削る不安定な社会。
その時の君主が、残虐無残なロドリーゴだとかいう国王でした。
彼と何度も覇権争いを繰り返したのが、先代国王のウティザ。
この国王ウティザが世を去ると、先代の息のかかった首脳陣たちには残忍な降格人事が待っていました。
亡くなった先王ウティザの娘が嫁いでいたのがフリアン伯爵。
彼らをジブラルタルの海峡の辺境の守備へとつかせるのですよ。
そうして「お主ンとこの娘は行儀見習いとして宮廷に置いてお主ら夫婦だけで行け!」ですと。
辛辣の人事の上に愛娘まで取られてはフリアン伯爵夫妻の気持ちは煮えくり返ります。
「いつか仕返ししてやるわい!」
そうしてジブラルタル海峡を目と鼻の先に挟んだ北アフリカに使者を遣わすのですよ。
「よろしゅうございますでしょうか。あのイベリアの半島は暴虐な国王ロドリーゴの振る舞いに貴族たちの鬱憤がたまっておる次第でございます!今ならあのイベリアの半島を攻めおとせますよ。きっと!さ!今がチャンスかと・・・」
北アフリカの民がイベリア半島に入植する経緯を史実はそう伝えます。
イスラムの教えに導かれた民が持ち込んだものは食物だけではありません。
農業のための灌漑用水を改良したのは彼らでありましたし、既に麻酔を使った手術も行われていました。
学術研究都市であるコルドバはおおよそ50万人の大都市で、40万冊を誇る図書館がありました。
モスクが1600寺。
公衆浴場が300軒。
各地に彼らの高い建築技術がきらびやかな宮殿を遺しているのは申し上げるまでもないことです。
大学の講義における教授陣は、アラビア系の学者たちがリードします。
そうしてここが一番大切なとこですよ。
彼らイスラムの知識層は、不寛容でも野蛮でもなかったのです。
自らの知識の共有を、キリスト教を奉ずるものにもユダヤの教えに準ずるものにも、分け隔てなくその学びの扉を開いたのですよ。
だから後に華ひらく近世ヨーロッパのルネサンスの学術面を支えたのは、イスラムの教えによってもたらされたとも言えるのですよ。
地図から妄想する旅の愉しみ(4)に続きます。
《つづく》