ご生誕のものがたり ~絵で読み解く新約聖書~(4)
【東方三博士の日の伝統菓子 ガレット・デ・ロワ】
フランスの伝統菓子ガレット・デ・ロワ(Galette des Rois)をご存じでしょうか?
キリスト教国のエピファニーの日(1月6日。東方三博士の礼拝の日、または公現祭)をお祝いして食べられる、パイ生地とアーモンドクリームをベースにしたお菓子なんですよ。
飾り包丁で美しく切り込みが入っているこのお菓子の中には、予め陶製の小さな人形、フェーブを忍ばせておくのです。
そうして切り分けた時に、フェーブ(最近は安全のため陶製のフェーブではなくてアーモンドを忍ばせることもあるのだそう)が入っていたカットに当たったら、その人はめでたく王様(または王妃様)の冠をかぶり、その一年は幸せに暮らせますよ・・・という習わしなのだとか。
このフランスの伝統菓子にも大きく分けて2種類のものがあります。
フランスでも南部、南東部、プロヴァンス地方では、砂糖漬けにした果物が入った輪状のケーキやブリオッシュが主流のようです。
フランスではこのガレット・デ・ロワを食べる習慣は、14世紀にまで遡るそうですよ。
では「東方三博士の日のお祝い」を主題にしたこんな絵をご覧になったことありますか?
なんだかとっても賑やかそう・・・っていうか騒音けたたましいかも。
一座は何をこんなに愉しそうに騒いでいるのでしょう?
これも「東方三博士の日のお祝い」の1つなのですよ。
同じ欧州でも、舞台は17世紀のベルギー、アントウェルペン。
パイの中に一粒の豆が入っていたら、今日一日あなたは王様。
一座の最も美しい女性を妃としてよいし、みんな彼の元に今日一日は家臣として仕えねばなりません。
そんな宴に嬌声を挙げる民衆たちを描いたのですね。
おそらくパイから豆を引き当てた今日の王様は、画中右端で椅子に腰かけ王冠を頭に載せた恰幅の良い男性でありましょう。
この絵を描いたのは、ルーベンスと並んでアントウェルペンを代表する画家であったヤーコプ・ヨールダーンス(1593年~1678年)という画家であります。
ルーベンスから、聖書の場面やあるいは古典・古代のローマ・ギリシアの神話の表現も影響を受けたに違いはありませんが、彼が新境地を開いたのはいわゆる風俗画。
口泡でも飛んできそうな嬌声に包まれたこの躍動感と、そして卑俗さ。
どうでしょう?
男も女も呑み歌い騒ぎ、そして酔いつぶれていきます。
つまりは酒宴の享楽への戒めも込められています。
ヨールダンスは同じ構図を何作か描いていますが、紹介いたしましたのはウィーン美術史美術館が所蔵する作品です。
【修道士フランチェスコ・ベルナルドーネと聖幼子の家畜小屋】
みなさんはプレゼーピオ(プレゼーペとも言います)ってご覧になったことありますか?
降誕節(クリスマス)が近くなると(おおよそ12月8日の聖母マリア無原罪のお宿りの日あたりから)ご家庭や学校、教会などで、聖幼子のご生誕を模した模型といいますかジオラマのようなものを飾りつけます。
プレゼーピオ(プレゼーペ)とはイタリア語であって、ドイツでは同じものをクリッペと呼んでいます。
プレゼーピオの登場人物や演出は、ご家庭やその環境によって少しずつ異なるようです。
多くの場合、母マリアと父ヨセフ、それから羊や驢馬、そして飼い葉おけなどが飾られます。
そして聖幼子の飾りつけは、降誕日直前になって登場するのです。
クリスマスが近づくと、各ご家庭や場所によって少しずつ異なる飾りつけを見るのも、この時季のヨーロッパ旅行の楽しみであったりします。
さて、そんなプレゼーピオの飾りつけはいつ頃始まったのでしょう?
托鉢修道士フランチェスコ・ベルナルドーネ(聖フランチェスコ 1182年~1226年)をご存じでしょうか?
日本の歴史と対比するならば、フランチェスコ・ベルナルドーネが生を受けた頃、現在の鎌倉市に源頼朝が武家政権(鎌倉幕府)を樹立したころとほぼ時を同じくいたします。
イタリアは中部ウンブリア地方の町、アッシジ。
この町がフランチェスコの生まれた町。
日本からは、天正少年使節もこのフランチェスコゆかりの町を訪問しています。
フランチェスコの清貧と貞潔の思いに包まれた鄙びた町。
それは残念ながら、団体ツアーでフィレンツエからローマの途上でついでに訪問したって彼の想いに触れるのは難しいのですよ。
だからこの文章を読んで、「アッシジ、行ってみようかな?」って思ったら、ぜひ!
何だったらお供いたしますよ(笑)
さて、そのプレゼーピオを発案したのがフランチェスコ・ベルナルドーネなのだとか・・・。
間もなく40代に差し掛かろうとするフランチェスコは、一大決心で聖地エルサレムを巡礼し、いたく感銘を受けます。
そしてその感銘を民衆に伝えたくて、1223年の年の瀬にご降誕のミサを計画いたします。
彼を支持する者が名乗りを挙げて、「ならばそのミサに我が土地を使っていただきとうございます。」と、現在のイタリア中部ラツィオ州のリエーティ県はグレッチョ(ローマの北に位置する町)という町で場所をお借りいたしました。
その土地には小さな祠がありました。
フランチェスコはその小さな祠を「聖幼子ご生誕の場所」と見立てたのです。
その祠に飼い葉が敷かれ、羊や驢馬が連れてこられます。
冬の日のことだから時の暮れも早い。
ご降誕のミサに参加するものたちは薄暗がりが迫る中、松明に先導されてやって参ります。
そうしたらその洞窟に、「聖幼子のご生誕」が再現されていたのですよ。
そしてフランチェスコ自ら「ご生誕の福音」を詠みあげたのです。
民衆は「そうなんだ。これが聖幼子のご生誕なんだ。」って、こんなの間のあたりにしたの初めてなのです。
なぜならば、彼らにとって「ご生誕」は「聖書」の中でしか触れることができないのです。
その聖書ですら、羊皮紙に筆写されたものが教会に一冊あるだけ。
しかもそれはラテン語という、彼らの日常の言葉とは違うアカデミックな言語で記述されています。
その内容を、聖職の道に携わるものから頭ごなしに読み聞かせられるのですよ。
フランチェスコは、そうやって民衆にわかるように「ご生誕」を解きほぐしてあげた最初の人なのです。
それがプレゼーピオの始まりなのだとか。
この3年のちには天に召される修道士フランチェスコ・ベルナルドーネの激動の一生の中で、最も心穏やかな詩情に満ちた1223年の冬の日の出来事でありました。
《終わり》