「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(5) ~たびさきで出会った絵のお話し~
モディリアーニという若いイタリア男
さて、イタリアはリヴォルノで生まれ育ったアメデオ・モディリアーニがパリに移住するのは22歳の時。
パリに移住した当初はホテル暮らしであったものの、モンマルトル地区のコランクール街にアトリエを借りるのです。
その頃、スペインから移住したパブロ・ピカソは丁度『アビニヨンの娘たち』を描きあげようとしていた時期でした。
パブロ・ピカソや、メキシコから移住したディエゴ・リベラ。
異国の芸術家たちが暮らしを送った、モンマルトル地区のアトリア兼アパルトマンの、通称:洗濯船「Bateau Lavoir(バトー・ラヴォワール)」。
このアトリエ兼アパルトマンは1889年に作られ、内部には25室の部屋があり、それぞれがガラス屋根と薄い板で仕切られただけの簡素なもの。
その様子から、なんだか大型船の内部のようで「洗濯船」と呼ばれるようになったのだとか・・・
やがてモディリアーニも「洗濯船」の一員となり、異国の芸術家と交流を重ねるのです。
愛おしきジャンヌの肖像
モディリアーニは1917年3月に、運命の女性ジャンヌ・エビュテルヌと出会います。
この時、彼は33歳。
彼女はまだ19歳でした。
ジャンヌも画学生であったし、藤田嗣治の絵のモデルを務めたこともあるのです。
そのモディリアーニとジャンヌはやがて恋に落ち、一緒に暮らし始めるのです。
モディリアーニが描く肖像画の、アーモンド型の瞳孔を描かないあの目の描き方。
ジャンヌと出逢う少し前からその描き方の兆候が見られ、この3年後に若くして他界する寸前まで、その特有の人物描写が続くのです。
モディリアーニはジャンヌと出逢ってから亡くなるまでのわずか3年の間に、愛するジャンヌを何度も描きました。
モディリアーニの作品ってどこに惹かれるのでしょう?
それは見る人、様々だと思います。
が、ひとつ挙げるとするなら「同じ人物を描いているはずなのにどれも違うじゃないですか?」。
日本画で人物の肖像を描くことをかつては似せ絵といったけれど、モディリアーニは似せることにポイントを置いていないでしょ。
描く対象が同じであるはずなのに、その対象へのアプローチと眼差しが全部ちがうような気がするのです。
フランスの芸術運動でもある印象派という画家たちが活躍した時代は、モディリアーニの青春時代から見てもひと昔前のことだけど、やがて美術はアカデミーの専有物ではなくなるキッカケとなったし、画家は描く対象を「自分が描きたいものを描く」ようになるのです。
何だか「フランス美術の大きなうねり」のようなものをこの時代の描き方に感じて興味深いです。
モディリアーニはジャンヌと出逢う少し前から特有の人物描写をするようになるのです。
左の作品は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館のジャンヌ。
右の作品は、岡山県倉敷市の大原美術館が所蔵するジャンヌ。
何れもザックリとしたタートル襟の黄色いニット編みを着て、小首を傾げてます。
何だか描く画家と描かれるモデルの間に情愛みたいなものが漂っていませんか?
右側のジャンヌはよぉ~く見ると、お腹が少し膨らんできてますよね。
つまりはお腹の中に二人目のお子さんがいたのですよ。
若い二人のための冬の日の遅い朝だろうか?
小さな台所で、デミタス椀にカフェを注ぐケトルの湯が音を立て始めたりしているだろうか?
やがて枯木立ちの巴里を映した窓辺は、生暖かく曇り始めるだろうか?
何だか色々なこと想像してしまう絵ですよ。
モディリアーニとは、生前からさして絵も思うように売れず、個展を開催できたのもただの一回きり。
やがて貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒や薬物依存などで、もう本当に自暴自棄みたいな晩年だったとの事ですよ。
そうしてこの荒廃した生活の末、上記右側の黄色いニットのジャンヌを描いた1年後の1920年1月24日に、あっさりと息を引き取っちゃうんですよ。
享年35歳。
遺されたのはジャンヌと一人娘。
それからジャンヌのお腹の中にいる赤ちゃん。
そうしたら今度はずっと長い間、この結婚に猛反対だったジャンヌのご両親がやってきて、妊娠中のジャンヌと一人娘を実家へと連れ戻すのですよ。
でも半狂乱のジャンヌは実家に連れ戻されたその翌日、実家の五階の窓から身を投げて、お腹の中に胎児を宿しながら若い命を自ら断ってしまうのです。
アメデオ・モディリアーニ。
この画家の作品がパリで評価を得るには、この時から6年ほど歳月を要したのです。
《つづく》