「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(4) ~たびさきで出会った絵のお話し~
巴里を描いた異邦人たち
「エコール・ド・パリ」という言葉を知っていますか?
エコールとはフランス語で「学校」を意味しますが、「エコール・ド・パリ」という時、それは学校ではありません。
20世紀初頭にパリのモンマルトルやモンパルナス地区で共同生活を送った画家たち、主に異国からパリに移り住んだ画家の一団と、彼らの日々のライフスタイルをも含めてそう呼ぶことがあるのです。
ではその「エコール・ド・パリ」と呼ばれる画家の中にはどんな人がいたのでしょう。
シャイム・スーティン(1893~1943年 ロシア系ユダヤ人)
マルク・シャガール(1887~1985年 ロシア系ユダヤ人)
ジュール・パスキン(1885~1930年 ブルガリア系ユダヤ人)
モイズ・キスリング((1891~1953年 ポーランド系ユダヤ人)
キース・ヴァン・ドンゲン(1877~1968年 オランダ)
パブロ・ピカソ (1881~1973年 スぺイン)
藤田嗣治(1886~1968年 日本)
佐伯祐三(1898~1928年 日本)
アメデオ・モディリアーニ(1884~1920年)
思いついた順に、1920年あたりから第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍の前にパリが陥落する1940年頃までの間、パリに住みついた異邦の画家の名前を挙げてみました。
「エコール・ド・パリ」と一括りにしたところで彼らには特定の「画派や流派」というものはなかったし、印象派のようにグループ展を開いたわけでもなく、国籍も様々なら画風やその表現も様々。
だから言ってみれば、「エコール・ド・パリ」という言葉には実態らしきものはないのです。
でもこの言葉を口に出してみた時に、アトリエにこびりついたニスの匂いみたいなものを感じるのと、現代油彩画への「道筋」をみるようで興味深いのですよ。
今回はパリに集った異国の若い画家の中から、アメデオ・モディリアーニを紹介いたします。
モディリアーニという若いイタリア男
モディリアーニ作品の人物描写って何とも言えない特徴があるでしょ?
現在遺されたモディリアーニ作品のそのほとんどが油彩の肖像画、または裸婦画です。
彼の作品から静物画は見当たらないし、風景画も数えるほどしか現存しないのです。
そうしてその代表作と言える、あのデフォルメされた長い首と卵型といいましょうか特有のお顔だち。
瞳を描かないぬりつぶしたかのような眼の描き方。
あの感じはどこからやってきたのでしょう?
ひとつにはモディリアーニの「彫刻体験」からきているのだと・・・指摘する人もいるのです。
こちらは彼が27~28歳ごろに制作した『テテ(頭部)』という作品。
現存する彼の彫刻作品は27点ほどしかなく、オークションにかけられると高値がつきます。
この『テテ(頭部)』という作品も2010年のクリスティーズ・パリのオークションに出品され、日本円にして48億3千万円という高値で落札されました。
落札した方はお名前を公表しておりません。
モディリアーニ作品は絵画でも彫刻でも、生前にはほとんど評価されなかったのですね。
古い映画ですが、彼の伝記映画『モンパルナスの灯』(1958年制作)のシーンで、出来栄えの気に入らぬ彫像作品を自ら川に放り投げるワンシーンがでてきました。
彫刻の道を志すものの、彼は「健康」とは縁遠く、故郷イタリア・トスカーナ地方の港町リヴォルノ時代の若いころから結核に苦しめられたようです。
彫刻を制作する際の粉塵は健康を害するとのことで、彫刻作業は断念せざるを得なかったのですね。
そんなアメデオ・モディリアーニが疾走のごとく青春を生き急いだパリの街。
足掛け13年にしか満たない、短かったパリでの暮らし。
変容していく彼の人物描法。
次週は、彼のかけがえのないモデル役を務めた「ジャンヌ」という女性の肖像画を通して、もう少しモディリアーニの世界に触れてみたいと思います。
《つづく》