「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(17) ~たびさきで出会った絵のお話し~

中国の大陸から学んだもの
【 近代日本画の改革。大観と春草 】

岡倉天心(岡倉覚三 1863年~1913年 文久2年~大正2年)とは、時にやや過激な日本画改革論者でもあり、故に反対勢力者も多かったのです。

そんな岡倉天心が東京美術学校の校長職を追われ、辞任したのが明治31年(1898年)。

この時、横山大観(1868年~1958年 慶応4年/明治元年~昭和33年)は30歳。

菱田春草(1874~1911年 明治7年~明治44年)は大観の6歳年下の24歳。

共に東京美術学校の教職に就いておりましたが、岡倉天心の辞任に従い、天心の指導の下、日本美術院設立に参画いたします。

そうして湯島天神町に美術院設立事務所が置かれます。

時に「朦朧体」や「はっきりしない絵だ」と彼らの近代日本画への改革は揶揄されながらも、いつも一緒だった大観と春草。

そんな大観と春草が描いた中国古来のモチーフを、作品を通してもう少し見て参りましょう。

菱田春草『菊慈童』(きくじどう) 
明治33年(1900年)
飯田市美術博物館 一幅 絹本著色

『菊慈童』(きくじどう)は、菱田春草が日本美術院設立に参加し、無線彩色(むせんさいしょく)の描き方に苦心を重ねた頃の作品です。

「慈童」とは中国古代の伝承の少年で、罪を犯したため人里離れた山奥へと追放された少年のことを言います。

ところが彼は、その山奥で葉にお経がかかれた菊を見つけます。

この菊の葉から落ちた雫を飲んだ彼は、その後800年の間、少年の姿のままで過ごしたというのです。

※ 無線彩色 = 墨による輪郭を描かず、色彩で繊細なグラデーションや情感を表現する描法。

日本画家たちが描いてきた「中国古来の物語」。

横山大観作品からは、円熟期にはいってからの作品を紹介させていただきます。

寒山・拾得(かんざん・じっとく)」という、中国は唐の時代の天台山国清寺の詩僧でもある伝承の二人をご存じでしょうか?

拾得とは寺の食事係をしておりましたそうな。

寒山はそんな清国寺の近くの洞穴で、雨露をしのぐ程度の暮らしを送ったのだとか。

寺の食事係の拾得は機転を利かせ、食事の残り物を拾得にわけてあげたのだとか。

そんな二人の出逢いの古式ゆかしき物語。

多くの絵師がこのモチーフを描きました。

大観が描いた「寒山・拾得」を観てみましょう。

《 横山大観『寒山拾得』大正4年(1915年) 福岡市美術館 絹本金地着色 六曲一双 》

福岡市美術館所蔵の『寒山・拾得』は、大観47歳のころの作品です。

左側で経巻を持っているのが寒山。

右で箒を持つのが拾得。

絵絹(えぎぬ)という絵を描くための絹地に金地を貼って、古来よりの中国の物語を描いています。

横山大観が遺した数々の作品には、時として我々がイメージする大観作品の意表を覆すものと出会えることがあって、本当に関心が尽きないです。

【 亡き友へのオマージュ 】

横山大観菱田春草

この6歳違いの盟友は、どこへ行くにも一緒であったといいます。

30代半ばを迎えたころの大観は、岡倉天心のすすめで菱田春草と共にインドやボストン(アメリカ)、そしてイギリス、ドイツ、フランス、イタリアへも渡航。

現地でも展覧会に出展し、好評を得ます。

外遊で得た新たな画境。

「朦朧体」は西欧から得た色彩学で新たな展開を迎えます。

近代日本画の改革をかかげ、1906(明治39)年には日本美術院はその本拠を茨城県の五浦へと移します。

大観、この時38歳。

春草は32歳。

ちょうどこの頃から春草の体調が思わしくなく、遂には日本美術院の活動から離れ、東京郊外で療養生活に入ることを決断します。

この時、春草は32歳。

東京に戻り、武蔵野の森を歩き、森との対話を繰り返し、『落ち葉』(明治42年 永春文庫 蔵)のような名作を遺します。

けれど日に日に病魔に蝕まれていきます。

果たして夭折の天才、菱田春草は36歳で天へと旅立っていきます。

肝臓病からくる視覚異常が死因とのことです。

『落ち葉』の作者をこうも早く失ったことは近代の日本画壇にとってとても大きな損失であった、と今でもそう惜しんでいます。

盟友、横山大観がそんな惜別のことばを遺しました。

大観が親愛なる友とのお別れに、中国古来の物語にその思いを託した作品をご覧いただきましょう。

横山大観『五柳先生』 明治45年(1912年) 東京国立博物館 六曲一双 紙本金地着色

「五柳先生」とは、中国の文学者でもある陶 淵明(とうえんめい 365年~427年)を指します。

現在の中国江西省の人で、官職の束縛を嫌って郷里へ戻り、農作業をしたり詩を書いたり、「田園詩人」とも呼ばれたといいます。

大観は「春草追悼展」の作品にこの画題を選びました。

向かって左側がその五柳先生。

右側にいる「長沙公」が去り行く場面に、五柳先生は「贈 長沙公」といってお別れの詩を詠みます。

うつむきながら去り行く長沙公が持つのは弦のない琴。

この弦のない琴を撫でて心の中で演奏した、というエピソードに因んだ作品です。

「亡き友へのオマージュ」を大観はこの作品に込めました。

《終わり》