「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(10) ~たびさきで出会った絵のお話し~
ザ・ラスト・浮世絵アーティスト 見参!①
ジャポニズム
現代からならば35年ほど時間を遡る事になりますでしょうか?
東京の国立西洋美術館で、「ジャポニズム展」(会期:1988年9月23日~12月11日)という企画展がありました。
その展の趣旨とは、19世紀以降の欧州、特にフランスにおいて、日本の大衆アートである浮世絵が欧州の生活調度や美術・工芸デザインにどのような影響を与えたのか?という主題にあるのです。
当時のフランス、オルセー美術館主任研究員ジュニヴィエーヌ・ラカンブル氏が図録に寄せたこんな言葉がありました。
【現在ではマネやモネ、ゴッホやドガ、セザンヌなどの印象派の画家に大きな影響を与えたことがクローズアップされてきました「ジャポニズム」。
ですが欧州の近代絵画に与えた影響ばかりでなく、生活空間の調度品、着物などの服飾文化・・・その影響はもっと広範囲にわたっていたのです。
改めてジャポニズムが遺した影響について熟考する時間を共有できればと思うのです。】
と・・・。
そんな「ジャポニズム」ブームの中、フランス陶器における最初のジャポニズム作品と言われる「ルソー」シリーズが上の装飾皿です。
食器製造販売業のフランソワ=ウジェーヌ・ルソーが1866年に銅版画家のフェリックス・ブラックモンに皿の装飾デザインを依頼したうちの一皿で、この一連の装飾皿は「ルソー」シリーズと呼ばれ、翌年のパリ万博の展示でも好評でした。
フェリックス・ブラックモンによるデザインには、明らかに葛飾北斎の影響が見られます。
その後に誕生したジュール・ヴィエイヤール工房の諸作品、エミール・ガレのガラス工芸品・・・北斎はじめとする浮世絵デザインは西欧の工芸界を席巻したのですね。
私たち日本人は、“伝統的なアート”と“日常のクラフト”の境界線が西欧に比べてとても緩やかなのだと・・・西欧諸国からの逆輸入で己を識ることになるのですよ。
浮世絵。その変遷
そうして浮世絵という、現代でいう雑誌やブロマイド的な役割を担う存在にしか過ぎなかった大衆メディアは、欧米のコレクターたちからも憧憬の的となります。
広重や北斎の人気作品は、“かけそば一杯”と同額で買える“愉しみ”ではなくなっていくのです。
さて、歴史にはその後のターニングポイントともなるべき社会事象や事件が登場します。
受験生だった時分は教科書に出てくる重要ポイントを丸暗記するしか術を持たなかったのに、今更になってその歴史的事象の経緯やその重要さを思ってみるとは何とも皮肉ですね。
例えば、黒船来航。
米国の代将マシュー・ペリー率いる艦船4隻が、江戸湾の浦賀沖(現在の久里浜)まで入ってきて停泊をいたします。
「江戸湾の測量のためだ」とは表向きの答弁。
本当は米国大統領からの親書を携えてやって来たのです。
これによって、長らく頑ななまでに開国を要求されても鎖国体制を維持した江戸幕府は、ようやく講和に踏み切らざるを得ない状況を迎えました。
これが1853年7月8日、我が方の年号では嘉永6年のできごと。
北斎が『千絵の海』で描いた『相州浦賀』の波おだやかな景色。
今、まさに魚を釣り上げて胸を躍らせんばかりの釣り人。
その描かれた絶景に、後に突如として異国の船が現れようとは。
黒船がその威容を轟かせ湾深くにまで立ち入った時、既にこの世の人でなかった北斎には知る由もなかったことでしょう。
一代目歌川広重は晩年であったものの、制作意欲は衰えを見せておりませんでした。
現にこの黒船来航をセンセーショナルな出来事として木版画に遺しています。
同じくこの年(1853年)、オランダの寒村ズンデルトの牧師館で産声を上げたのがフィンセント・ファン・ゴッホならば、日本の現・熊本に後の「近代日本医学の父」と称される北里柴三郎が生まれています。
そうして、“江戸の大衆娯楽”浮世絵も、江戸から明治・大正へと新しい時代の潮流に吞まれながら、そのスタイルの在り方を模索していきます。
美術品というものにも、やはり社会の事件・現象と大きく関わって参ります。
江戸幕府は長らく続いた鎖国政策から開国を求められ、やがて通商を再開いたします。
欧米諸国からもたらされた物資は、我々日本人の生活に大きな変化を与えます。
例えば、「写真」の技術は浮世絵が担っていた役割にとって代わります。
写真という技術は浮世絵よりも再現性が高いし、短時間で制作できます。
また、版画ならば石板画や銅版画も輸入されましたし、こちらの方がはるかにコストは安いし手間も省略できたのです。
《つづく》