おやすみ前の妄想旅行(3)
長崎出島のシーボルト③
シーボルトが日本に滞在した6年という短い歳月。
その間、様々なできごとがありました。
1826年(文政9年)の年明けには、出島の商館長に伴って江戸を参府するという、またとない機会に恵まれます。
これが、出島オランダ商館長の定期的に行われた江戸への日蘭貿易「お礼参り」とも称され、進物(主に毛織物や絹織物)を携えて江戸で将軍や高官に謁見したのです。
この出島オランダ商館の江戸参府は1609年(慶長14年)に開始され、1850年(嘉永3年)の終了まで計166回行われています。
江戸参府を構成する者たちは、出島の商館長をはじめ書記、医師などで、これに日本から長崎奉行所の検使、江戸番通訳、町使、料理人、子使などがつき従い、総勢59人にのぼったとの事です。
シーボルトも商館長付医師の立場ですから、この参府に付き添います。
シーボルトは、出島にありながら出島外での活動を認められてはおりましたが、日本はまだまだ鎖国の時代です。
江戸やあるいはその道中の日本の気候やそれに伴う植物の形態、はたまた日々の暮らし、そういった様々な日本の事情視察。
これはまたとない機会であることに違いありません。
さぞかし鼓動の鳴りやまぬことであったでしょう。
シーボルトの時代は、4年に1度この江戸参府が行われており、年が改まった1月9日に長崎出島を出発。
陸路で現在の下関まで向かい、下関の港から一行は「船の人」となります。
そうして現在の兵庫県は竜野のあたり、瀬戸内を見晴らす岬に室山の城の名残があります。
このあたりに船が到着すれば、雪の降りしきる宵を姫路まで徒歩で向かっていきます。
江戸へ向けて、徒歩であったり時に篭を利用したり、実に2か月の日程を所要いたします。
旅の道中では、大阪で淀川の灌漑用水を視察したり、府中ではウズラやアホウドリの生態について詳しく調べたり、箱根では山脈の高度測定を行ったり、依頼があれば解剖学の講義を行ったりと、誠にシーボルトその人の日本探求を満たすに相応しい道中ともなります。
加えて江戸参府では、シーボルトは江戸の博学たちとも交友を深めます。
江戸幕府の天文学者 高橋景俣(たかはしかげやす 1785年~1829年)からは、「伊能忠敬の日本の計測図や蝦夷地の地図」を送られ、幕府つきの眼科医である土生玄碩(はぶげんせき 1762年~1848年)からは将軍拝領の葵の紋服を送られます。
実はそういった品々は、鎖国下の日本においては日本からの持ち出し禁制品でもありました。
だから後に、シーボルトが任期を終え欧州への帰路を辿る時、船積みされた品々の中から持ち出し禁制品が発見されたことが、俗にいう「シーボルト事件」となるのです。
2017年の夏、大阪の国立民族学博物館で「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」なる企画展が開かれ、見学する機会に恵まれました。
こちらはシーボルトの第一次日本滞在(1823年~1829年 商館付医師として活動)と第二次日本滞在(1859年~1862年 鎖国後の外交顧問として滞在)における、シーボルトが欧州へ研究のために持ち帰った、オランダはライデン民族国立博物館とミュンヘン五大陸博物館からの貸し出し品やそのほかの資料で構成されていました。
とにかく凄かった!です。
彼の熱情たる蒐集とは、特定の学問に納まりきらないのです。
仏壇はあったし、浴衣もあったし、お箸やお汁椀まで・・・
植物や鉱物研究に関する様々な夥しい量の資料もありました。
炎天下のせいもありましたが、企画展を出たあとに少し立ち眩みすら覚えました。
【1828年(文政11年)シーボルト事件】
さて、シーボルトは出島商館付医師の任務を終え、長崎湾を後にしようとする頃、32歳になっておりました。
宝暦では文政11年8月9日だから、「涼風至る頃」とでも申せば風雅でしょうか。
ところがそれどころではなく、九州北西部に台風が上陸。
港内には大きな高波が発生し、船の出入りを監視する遠見番所は壊滅状態。
係留された船すら大半が砕け散るのですよ。
こんな状況だから当然、出航は見合わされました。
ところがこの強風と豪雨は、乗船予定だったオランダ船コルネリウス・ハウトマン号の船体をゆさゆさと動かし始めたかと思うと、不気味なまでに軋むを音を立て咄嗟にさらっていきます。
そうして稲佐海岸のあたりで座礁したのです。
問題なのはここから。
台風落ち着きし頃を見計らっては船の修理に入りますが、船積された荷物から「国外持ち出し禁止品」の日本測量図や図書類が発見されるのですよ。
これがシーボルト事件。
それはすなわち、江戸参府で交流を深めた高橋景俣から譲り受けた「日本測量図」、そして土生玄碩(はぶげんせき)から授かった将軍拝領の葵の紋服などなど。
鎖国下の日本にあってこれらは「持ち出し禁止品」となるのです。
シーボルトは再び出島へ連れ戻され拘禁。
彼に関わった疑いのある高橋景俣は厳しい取り調べの途中で命を落としましたし、土生玄碩は家屋敷を没収されてしまいます。
お抱え絵師の川原慶賀や、出島の通訳たちに至るまで取り調べが及ぶこととなったのです。
そうしてシーボルトは翌1892年(文政12年)、「日本お構え」の判決、つまり国外追放ならびに“二度と日本の地に渡航は許さぬ!”という判決を受けることとなるのです。
この時、一人娘のイネはようやく3歳になろうかといったところ。
長崎は鳴滝塾でシーボルトから西洋医学を学んだ若い医師や医学生たちが、漁師に扮してたらい船に乗り込みます。
彼らは出航するシーボルトの船に寄り添いました。
懐に幼いイネをそっと隠し、父と娘のお別れを演出してあげたのですよ。
シーボルトが再び日本の地を踏むことを許されるのは、この事件からおおよそ30年の時を経て「黒船来航」という日本史史上驚愕の事件を契機に国策が転じてからの事。
これによって日本は開国を求められ、江戸幕府は終焉を迎えます。
日本の国政が針路を変えるに伴って、シーボルトも国外追放の罪を解かれ、新制日本の外交顧問として再び日本の地を踏むこととなるのです。
この時、日本に残した楠本イネは立派に父の意志を継ぎ、日本で初めての女性産科医となっていたのですよ。
宮内省御用掛として明治天皇の女官の出産にも立ち会っていたのですよ。
《終わり》