おやすみ前の妄想旅行(2)

長崎出島のシーボルト②

さて前回、御覧いただきました川原慶賀という絵師の作品。

『蘭館図(蘭船入港図)』

その細部をよく観察してみましょう。

建物の屋上らしきところから黒い上着で望遠鏡を覗く人物。

こちらが出島オランダ商館のヤン・ドンケル・クルティウス。

当時の商館長。

その隣で商館長に話しかけている白い服を着た人物がシーボルトその人。

その隣では、ひときわ背丈の低い黒人が子供をあやそうとしています。

こちらがお手伝いとして雇われたオルソンという人物。

そしてオルソンの右隣で子供を抱いているのが、シーボルトの日本における最愛の女性、楠本滝(1807年~1865年)という人物。

海を見つめる楠本滝が両の腕にかえているのは、シーボルトとの間に授かった女児。

イネというお名前です。

この子は後に赤毛の“オランダおイネ”とも呼ばれ、司馬遼太郎の新聞連載小説『花神』にだって登場いたします。

もう一人、左側から勾配のある階段をのぼってくる女性がいます。

こちらはイネの乳母役だとか・・・。

遠く汽笛をあげてオランダ船が入港してくるでしょ。

オランダの交易船は、一年に一度だけ夏の間のみ2隻入港する事になっていたそうです。

出島とはどのくらいの数の人が日々の暮らしを送ったか?

商館長からシーボルトのような商館医師、それから料理人や停泊中のオランダ船員、そしてオランダ人以外にも日本人の役人や通訳たちも出入りするし、雑用を承る東南アジア系の使用人たち。

大雑把に見積もって100人を少し超える程度でしょうか。

そんな人たちが東京ドームのおおよそ1/3程度の土地に暮らし、外出もままならない・・・

しかも本国からの交易船は年に一回・・・。

かつ女人禁制でもあったから、オランダの男たちにとっては「牢獄」のようなものですね。

でも「あるお仕事」の日本人女性たちは出島に出入りし、彼らの雅宴に「花」を添えたのですよ。

それが丸山遊郭の遊女たち。

「遊女」だからといって現代の倫理観で職業を断じたりしては、間違った見解が生じるのですよ。

シーボルトの最愛の女性、楠本滝も丸山遊郭に名を連ねた遊女とは言え、遊女とは長崎の町にあって通訳や役人以上の密度で出島のオランダ人とコンタクトが取れる貴重な存在なのです。

遊女を通じて貿易に関する情報や品々が日本に流通する窓口であり、いわばモードの先端も担ったかもしれませんね。

その当時、遊女たちを通して日本に持ち込まれたものを挙げてみましょう。

白砂糖、絵鏡、切子蓋物、切子瓶、オランダ靴、オランダ製箪笥などなど。

「遊女」という存在が日本と出島の橋渡し役をも務めたのでしょうか。

こちらが楠本滝の肖像画。

簪(かんざし)の数が多いでしょ。

これは当時のちょっと高級な「遊女」を意味するそうですよ。

             

シーボルトの著作『日本植物誌』に掲載された
ハイドランゲア・オタクサ(紫陽花) 

お互いが惹かれあったその時、シーボルトが27歳ならば楠本滝は16歳。

遊女としてのお名前を其扇(そのぎ)と名乗ったそうであります。

シーボルトは6年の滞在の歳月で、読み書きについてはカタカナは不自由がなかったそうです。

でも難しい日本語の発音もあって、そのうちのひとつが愛する「お滝さん」という発音。

うまく呼べなくてもどかしくて「オタクサン、オタクサン」と呼んだそうです。

そうして彼が日本を離れ、39歳の頃に編集した著作が『日本植物誌』

様々な日本の植物が欧州へと紹介されたのだけど、アジサイ属はその著作の中で14種記載されます。

そうしてアジサイにハイランゲア・オタクサ(Hydrangea otakusa)と命名し、その可憐さにお滝さんを重ね合わせたのでしょうか。

    

それがゆかりで、現在でも長崎では若葉の葉先に雨だれのしずくが滴る初夏の頃ともなれば、「ながさき紫陽花祭り」なるものが開催されるのですよ。

このお二人が授かった女児が楠本イネ(1827年~1903年 文政10年~明治36年)とは前述のとおり。

でもシーボルトも任期を終えればやがて本国へと戻らねばならない身。

お滝さんとおイネにはいつかは「母子家庭」という環境に身を置く運命が待っているのです。

そうしてお二人が見初めあってから6年の歳月の後に、帰国の途に向かう彼に「シーボルト事件」という世間を騒がす一大騒動が待っていようとは誰も知る由がなかったのですよ。

《つづく》