ご生誕のものがたり ~絵で読み解く新約聖書~(2)
何故、欧州の画家は聖書の場面を絵画に繰り返し表現してきたのでしょう?
と、もし疑問をお持ちなら逆に問いたいのです。
日本にだって、お寺の中に仏間や障壁を彩る絵画作品が多数あるではないですか?
一言で申しますと、長らくカトリック教会は画家に仕事を提供するパトロンでもあったのですよ。
日本では江戸中期に、絵画における写実性を引っ提げて現れたあの円山応挙(1733年~1795年)だって、円満院から庇護を受け随分と腕を振るったではないですか?
教会・寺社・仏閣が、芸術作品に理解を示しパトロンの役割をするという事は、欧州社会にのみ見られた現象ではないのです。
加えて、中世のヨーロッパでは識字率がとても低かったのです。
聖書の言葉は、もとはヘブライの言語とはいえ、欧州にはいってきてからはラテン語に編集されるのです。
庶民たちが日常の会話とする言葉と、ローマ人たちが育んできたラテン語とは違うのです。
だから庶民は、イエス・キリストの教えや聖母マリアの一生に触れるのに、聖職者の手助けや絵画作品を必要としたのですね。
西ローマが衰退してからの欧州の絵画は、そういった環境の中で育まれていきます。
聖書のものがたりの“ある場面”を描くのも、時代の風潮によって様々な表現があります。
この作品。
17世紀初頭、イタリアや英国で活躍したオラツィオ・ジェンティレスキが描く『受胎告知』をご覧になって、どんなことを思いますか?
彼が描けば、聖書のものがたりですら写実的でありながら洗練とエレガント。
そんな言葉が似つかわしのですよ。
右の手を指し、一心に神の御心を告げようとする少年のような天使ガブリエル。
美しい少女マリアを目の前にして、少年のはにかみとためらい・・・そんなもどかしさと品の良さが伝わってきませんか?
大天使ガブリエルの仰せに恐れおののいたはずの少女は、ようやく神の意に従ったのでしょうか?こう言うのです。
「わたしは神のはしためです」
つまりは、「神の仰せの通りにいたします・・・」ということなのです。
さて、その少女マリア、今度は現実的な問題と対峙せねばなりません。
この出来事を周囲にどう伝えれば良いのか?・・・
「今から産まれてくるその子をイエスと名付けなさい」って言われたって・・・。
そもそもわたくしは殿方を知りませぬのに・・・。
殿方を知らぬとはいえ、婚約者はいたんですよ。
でもその婚約者は、好きで一緒になるわけではないのです。
いわゆる許婿(いいなずけ)という相手なのです。
しかも!
その男性は少女マリアより、う~~~んと!年上!
その男性はヨセフだとかいうお名前とは前述の通り・・・。
ではでは、その許婿(いいなずけ)であるヨセフとは、どんな事を生業(なりわい)にした人なのか?
大工さんだったのですよ。
大工といえども当時のパレスチナ(イスラエル)の風習に従えば、特定の場所にお店を構えてご商売するのではなく、「なんか仕事ありませんかのォ~。何でも直しまっせ~」って、仕事を求めて渡り歩く出張大工みたいなものだったとか。
遠藤周作さんが生前にそう言っていました。
ヨセフとは“養父”と表現されたり。
夥しい数の“マリア美術”が存在するのに比べ、絵画でもあまり主役を担うことはないのだけれど・・・
父ヨセフを描いたこんな作品どうです?
フランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが描いた『大工の聖ヨセフ』という作品です。
聖書ものがたりを題材とした作品の中でも珍しい構図だと思います。
つまりは、父ヨセフの大工仕事を蝋燭の灯りで照らしてお手伝いする幼いイエスなのです。
蝋燭の灯りに照らされた少女とみまがうような「ぷくっ」とした柔らかそうな白い頬っぺの表現どうですか?
ラ・トゥールは、主題やモティーフを引き出す時に、こうやって暗がりから浮かびあがるような表現を灯りで強調することによって巧に描くんですよ。
悩みに悩んだ挙句、少女マリアはご親戚のエリザベトを訪ねる決意をいたします。
エリザベトとザカリヤ夫妻が暮らしを送るのは、エン・カレムというエルサレムに近い、現代でもなんにもない小村です。
そこへ少女マリアが、ガリラヤ地方から驢馬の距離おおよそ5日をかけてやってくるのです。
少女マリアは、あの「あなたは神の子を身籠ったのだ・・・」とのお告げを受けて以来、心配で心配でその小さな胸のうちが張り裂けそうになり、誰かに相談したかったのですね。
少女マリアは当時、14~16歳であったと言われています。
長い旅路の間、不安だったのでしょう。
思わず二人とも、感極まって涙を抑えることができません。
エリザベトは随分とご高齢で、かねてから「子供ができない」と悩んでいました。
自分の悩みを相談しにきたはずの少女マリアだったのだけど、会ってみてビックリ。
エリザベトはなんと男児を身ごもっていたんです。
これが後にバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)という、イエスよりも少し年長の人物となります。
「神の力ってすごい」
お二人は抱擁するのです。
その時、エリザベトの胎内で赤ちゃんがポン、ポンって反応したんですって・・・。
「あっ今、わたしのお腹の中で赤ちゃんが動いた・・・」って言うんですよ。
西欧教会(ローマカトリック教会)の典礼の歌『マニフィカト』に、マリア賛美のパートがあります。
あれは、このエン・カレムの出来事を人々が紡いで典礼の歌となったそうですよ。
現代では、この何もない小村に小さなお堂が残っていて、内陣へ足を踏み入れると「マリアの賛歌」が各国の言葉で壁を埋め尽くしているのです。
ここに添えた作品が、16世紀のイタリアはプラートのカルミニャーノ聖堂の内陣を飾るフレスコ画『聖母のエリサベツ訪問』。
【無原罪のお宿り】
西欧には夥しい数のマリア美術が存在するけれど、そのマリアさんの表現は描く人や時代の風潮などで様々です。
サン・マルコ美術館(フィレンツェ)でみるフラ・アンジェリコのあの描き方は静謐さが伝わってくるし、ルネサンス期の筋肉ゴツゴツした少しマッチョ感のある人体表現のマリアさんもあるし、暗いお堂の中で蝋燭の灯りを頼りにみるフレスコ画のマリアさんの純朴な表情もいいです。
様々なマリアの描き方や表現があるけれど、どれか1作だけ挙げるならば、私は17世紀のスペインで活躍したバルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョのマリアさんが好きです。
ムリーリョが描いた『アランフエスの無原罪の御宿り』は同じ構図のものが何作かあるけれど、今日はプラド美術館所蔵の「無原罪の御宿り」を紹介いたします。
【何故、聖幼子はベツレヘムの家畜小屋に産まれたのか?】
イエス・キリストの生年は決して西暦0年ではなくて、史実ではおおよそ紀元後の30年前後であろうとされます。
当時、イスラエルはどんな状況にあったのか?
ローマ帝国の属州だったのです。
ローマは中東ではシリアという大きな枠組みを属州として、イスラエルはその中の一地方だったのです。
本国ローマでは、あのガイウス・ユリウス・カエサルは既にこの世の人ではなく、彼の養子でもあったオクタウィアヌス(皇帝を継いでからはアウグストゥス)が皇帝を務める時代。
この時代にある政策が実施されます。
それは属州の戸籍登録の管理。
属州の民の戸籍の登録をするために、全ての属州民は出生地へ戻り戸籍登録をするように・・・という法令が出されます。
ヨセフさんは身重のマリアさんを連れてベツレヘムへと向かうのです。
ところがベツレヘムに到着したのは良いけれど、宿屋を求めてもどこもここもこの急に出されたローマからのお達しに大勢の宿泊客がごった返して大忙し。
ついに宿はみつからず・・・そのうちにマリアさんが産気づきます。
あっ!赤ちゃんが産まれる!ってこれは大変!
そこで近くの家畜小屋をお借りして、飼い葉をしいてベッドかわりにしたのですね。
だから聖幼子はベツレヘムの家畜小屋で産まれたもう。
馬小屋というと人がいたりしますが、馬小屋ではないですよ。
何故ならばあの時代、イスラエルには馬はいなかったですから・・・。
ところでクリスマスって日本語では何といいますか?
降誕節。
「節」とつくからには複数の日数を指します。
決して12月25日だけを指すのではありません。
年始の東方三博士の礼拝の日(1月6日)をもって降誕節の締めくくりとしています。
では最後に紹介させていただく作品。
オランダの画家、ヘラルト・ファン・ホントホルスト(1592年~1656年 オランダ・ユトレヒト)が描いた『羊飼いの礼拝』。
家畜小屋で産まれた幼子のもとへ、最初の訪問者がやってきます。
それは羊飼いたち。
彼らは夜通し羊の番をしていたところ、天使が現れて救世主の誕生を告げるのです。
急ぎベツレヘムへ向かった3人の羊飼いは、誕生を祝う言葉を述べ、1頭の羊と彼らの杖と笛という、彼らの必需品を贈り物としたのです。
画家ヘラルト・ファン・ホントホルストは、光と影の描写を駆使し劇的な空間を生み出しています。
この作品ではまるで聖幼子自身が光源であるかのようです。
そうして、そのうっすらとした灯りに浮かび上がった父ヨセフと母マリアの慈愛に満ちた表情。
それを取り巻く羊飼いたちの紅潮した面持ち。
どうでしょう?
降誕節というものの持つその意味に、少し近づいた感じがしませんか?
《つづく》