おやすみ前の妄想旅行(1)
長崎出島のシーボルト
長崎の町にも夕刻のしぐれ雨が通りすぎると、雲の切れ間に人々は“立秋”という言葉を願ったでありましょうか。
時は1823年8月11日、宝暦では文政11年を数えます。
オランダから遣わされたというその若い医師を見て、江戸幕府の通事(通訳)たちはこう申したのであります。
「貴殿のお話になるそのオランダ語はどうにも・・・こんな事を申しては失礼かも知れぬが、不自然ではありますまいか?」
この時代の幕府の通訳たちは、オランダはおろか日本から出た経験すらないのですよ。
その通訳たちが、初見で異国の医師のオランダ語を聞いて「貴殿のオランダ語おかしくないですか?」と聞き分けたのですよ。
「鎖国」という対外政策が完成したのは、徳川将軍の中でも数少ない正室の出である徳川家光(1604年~1651年)という人物の頃。
日本人の海外への渡航、海外からの帰国、あるいはポルトガル船はじめ西欧諸国からの来航を禁止。
つまりは対外的な通商とは、清国(中国)と欧州ではオランダのみに限られたのです。
現在の長崎には観光名所の一つとして、かつての「出島」が復元されています。
出島にオランダ商館が移されたのが1641年(寛永18年)。
出島とは、当時のオランダから赴任した商館長や商館医師、料理人、大工仕事の男たちや停泊中の船員たち、それから一部の下働きのマレー人が生活を送る場所であり、かつオランダ商館があった場所です。
この出島がおおよそ218年間続いたのです。
つまり「鎖国」という幕府の対外政策下において、“欧州の微かなともしび”は「出島」という限られた人工島の生活空間を通して我々と繋がっていたのです。
出島は大きさで言えば東京ドームの1/3ほどの面積。
そんな「出島」が、後の日本の近代化への小さな開かれた「窓」だったのですよ。
さて、件(くだん)の不自然なオランダ語とやらの若い医師とは?
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)という、誰しもお名前ぐらいは聞いたことのある人物。
南ドイツはビュルツブルクという、お医者さんを多数輩出した名門の家系を出自といたします。
シーボルトは、本業は医師(外科・産科・内科医)ではありますけれども、この人の学問に対する熱烈たる関心は尋常ではなく、動物学、植物学、民俗学と様々な専門分野に秀でているのですよ。
とにかくシーボルト。
学問を収めて開業するも、「これまでまだ十分に調査が進められていない地域の研究がしたい」と東洋学研究を志します。
ならば東インド領に拠点をもつ、オランダはハーグへ出向きます。
こちらで当時の国王ウィレム1世の待医から推薦をいただくこととなります。
そして、オランダ領東インドの陸軍外科医に任命され、現在のインドネシア共和国ジャカルタへ赴任するのです。
これが26歳の時。
そうして彼の探求心と勤勉が認められ、オランダの貿易先でもある日本の長崎出島へ赴任することとなるのです。
この時のシーボルトの肩書が資料として残されているのですよ。
「外科少佐 及び 調査任務つき」ですって!
どうやらシーボルト、ただ単に医師ではなかったし、ただ単に学術研究者ではなかったのですよね。
どうやら鎖国の時代にあって、オランダの日本に対する「魂胆」のようなものがシーボルトに託されているようで興味深いではないですか。
確かに、オランダには主要都市が出資してアジアとの交易を独占する組織がありました。
それが、東インド会社(1602~1798年。アムステルダム、ミデルブルフ、ロッテルダム、デルフト、ホールン、エンクハイゼンの6都市が出資した貿易組織)。
17世紀の交易はオランダの一人勝ちだったのですよ。
だから英語でDUTCH(ダッチ)とつく言葉は何れも宜しくない言葉が多いでしょ。
それは、アジアどころか喜望峰の東からマゼラン海峡の西までを交易する条約を持っていた独り勝ちのオランダを、英国が妬んだ事情もあったようです。
オランダの交易の黄金世紀は17世紀まで遡りますが、驚くべき数字が残っています。
オランダ東インド会社による交易が盛んな頃、200年間で建造した船が凡そ1500隻。
行った航海が凡そ4800回。
うち船が破損、難破した率がたったの4%!
当時としては驚異的な数値を残しています。
さて、そのオランダ東インド会社はどんな品々を取り扱っていたのか?
これがまたすごいんですよ。
東洋からの取り扱い品目は・・・胡椒、香料、絹織物、染料、砂糖、銀、銅、ジャワのコーヒー豆、インド象、ペルシャ馬、古伊万里(有田焼)・・・
ほんの一例ですよ。
取り扱い品目は100を有に越えていたとの事ですから、ちょっとした商社ですね。
シーボルトの時代は、そんなオランダの交易が華やかなりし頃を過ぎていたとはいえ、日本との貿易をもう少し活性化したかったのでしょう。
だから商館医に身を扮しては「日本の実地調査?」
でも本当に、シーボルトがオランダに持ち帰った日本の植物や生活の様々の品々は、オランダからの任務だったのか、あるいはシーボルトの未調査の地に対する彼の莫大なる興味の賜物なのか・・・、判然としないのですよ。
彼が日本から持ち出した日本の暮らしの様々な品や植物・・・それらは一つの博物館が構成できるほど多岐にわたるのですよ。
長崎出島という、大変限られた生活空間にありながら、シーボルトの博学ぶりと勤勉ぶりは評判となってまいります。
時のオランダ商館長の後押しもあって、しまいには長崎のお奉行所からもシーボルトが出島以外でも活動を行ってよいという許可がおりることとなったのです。
そうして彼は、翌1824年に七面山という小高い山の麓に民家を購入。
ここを「鳴滝塾」と名付け、臨床医学ばかりでなく生物学や日本の歴史、風俗を研究し、若き日本の医学の門弟たちが集ったのですよ。
《つづく》