「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(16) ~たびさきで出会った絵のお話し~
中国の大陸から学んだもの②
さて、日本の美術史において、私たちは中国の大陸から様々な事を学んで参りました、と前回申し上げました。
絵を描くその主題も、中国の古来よりの物語を研鑽し、その描き方に工夫を重ねて参りました。
西欧美術の主題に「聖書ものがたり」が繰り返し描かれてきたように、日本美術界は競って中国の古来よりの物語に表現の工夫を重ねて参りました。
中国の古来、楚の時代の政治家 屈原(くつげん)を横山大観(1868年~1958年 慶応4年/明治元年~昭和33年)が描いています。
屈原とは、あらぬ嫌疑をかけられ政務を追われ、挙句自死を選んだと伝えられる人物です。
小説家であり劇作家でもある島村抱月(1871年~1918年 明治4年~大正7年)によるものでしょうか、屈原とは熱情と多感のイメージがつきまといます。
怪しげな鳥や揺らぐ草木の表現は、屈原その人の悲運を暗示しているかのようです。
大観の師である岡倉天心(1863年~1913年 文久2年~大正2年)が、明治期の西欧美術への傾倒の時代において日本美術とはどうあるべきか?を問うた、その成果の一旦がこの作品にあります。
合わせて大観は、東京美術学校の内紛により校長職を罷免された岡倉天心の無念を「屈原の物語」に重ね合わせたのでしょうか。
大観が丁度30歳を迎えた頃の作品。
岡倉天心が牽引した「近代日本画」の「分水嶺」ともなるべき作品。
「屈原の侮辱に満ち満ちたこの眼差しの描き方」、よぉくご覧ください。
【 大観と春草。二人はどんな時も一緒でした 】
夭折の天才、菱田春草(1874~1911年 明治7年~明治44年)という画家を知っていますか?
横山大観が東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)の1期生ならば、菱田春草は大観の6歳年下で卒業後は共に東京美術学校での教鞭の職に携わります。
ところが近代日本画の名だたる画家、例えばそれは橋本雅邦であり川合玉堂であり横山大観、下村観三、西郷狐月、菱田春草。
彼らを牽引してきた美術学校の校長職にある岡倉天心が、辞職の道を選択せざるを得ない状況を迎えたのです。
岡倉天心の美術学校の運営方針は時に周囲から反対されることもあり、また彼の九鬼男爵夫人との間柄も随分とスキャンダラスに報じられ、美校内紛として世間を賑わせます。
そうして岡倉天心は美校の校長職を辞任します。
この時、大観、春草を始めとする34名は美校に辞職を申し出、岡倉天心が新たに設立する日本美術院の設立に参画いたします。
その日本美術院の第一回展に大観が出展したのが先の作品『屈原』。
その大観と夭折の天才 春草は、とにかくどこへ行くにもどんな時も連れだって仲が良かったとのことです。
その春草、28歳の時の作品。
『王昭君(おうしょうくん)図』。
中国は前漢(紀元前206年~紀元前800年)の時代の物語。
この時代、中央政府の農耕社会を脅かす遊牧民族の匈奴(きょうど)がモンゴルの高原に暮らし、暴虐の限りを尽くしたというのです。
その匈奴民族との和平交渉のために、前漢の中国の後宮から美女が送られたのです。
その伝説の美女が王昭君(おうしょうくん)。
これから匈奴に旅立つにあたって、悲しいお別れの場面を菱田春草が描きました。
岡倉天心は言うのです。
どうすれば日本画で油彩画のような空気感や、ぼかしたような質感を描けるのか?
下記に挙げた例は、英国のターナーが晩年の69歳のころに残した作品です。
こんな空気感やぼやけたような質感を日本画材でどのように表現するのだろう?
天心に付き従った日本画家たちは苦心に苦心を重ねます。
彼らの日本画における試みは、「何ともはっきりしないぼやけた絵だ」とか「朦朧体」だとか言われ、随分と揶揄されたのです。
春草は『王昭君』で、油彩絵具を混入し巧みな色のぼかしで滑らかな質感を生み出し、独特の夢想的な雰囲気を生み出すことに成功しています。
近代日本美術史史上のあの名作『落葉』(明治42年 永春文庫)や『黒き猫』(明治43年 永春文庫)が生まれる7年ほど前の事。
ですが、そんな日本画界の将来を期待された春草は徐々に病へと侵されてゆくのです。
《つづく》