「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(13) ~たびさきで出会った絵のお話し~
肖像画の世界②
日本画(やまと絵)における「人の顔」の描き方の特徴をもう少しみてみましょう。
サンプルは、土佐光起(1617年~1691年 元和3年~元禄4年)の『紫式部図』です。
日本美術史をおおよそ平安時代まで遡ると“土佐派”と呼ばれる画派がありました。
彼らは時に“絵所預”といって、宮廷の中で美術品を管理するとても重要な役割を果たしました。
また、「やまと絵」の表現を連綿と培ってきました。
だから平安期以来、「雅」とされてきたお顔を描くのですよ。
上記の紫式部さんもよお~くご覧ください。
引き目鉤鼻。下膨れの頬。それから「垂髪」でしょ。
つまり、高貴な女性を描く時のお決まりごと。
そんな事を踏まえて作品を見れば、「絵」を見る愉しみがひろがるかもしれません。
【似絵のはじまり】
やがて平安時代の末期になると、日本画(やまと絵)における「人の描写」は、描かれるモデルの個性や特徴に重点を置いて描写されるようになっていきます。
目鼻の描き方も精密な表現が普及して参ります。
これを「似絵」(やまと絵の肖像画)といい、平安時代の末期から南北朝時代にかけて、肖像画の対象として天皇、公家、武人、僧侶らが描かれるようになるのです。
その似絵の描法を広めたのが藤原隆信(ふじわらのたかのぶ 1142年~1205年 康治1年~元久2年)という、貴族であり画家であり歌人であった人です。
そして藤原隆信から見れば6代後の藤原豪信(ふじわらのごうしん 生没年不詳 鎌倉期~南北朝期にかけての天台僧)は、僧としては法印(僧侶の位階。最上位)という位まで与えられ、花園院の宮廷サロンで似絵作品を遺しております。
面貌の描写においては細淡墨線を引き重ねて細心の表現を重ねて参ります。
まさにまさに、鎌倉時代の似絵の伝統は豪信を持ってその掉尾(とうび)を飾るのですよ。
彼の筆による現存する作品は、『天皇摂関大臣影図鑑』(宮内庁蔵)や下記に見る『花園天皇像』(1338年)。
第95代天皇 花園天皇(1297年~1348年 永仁5年~貞和4年)が描かれています。
肖像画はただ“似せて”いれば良いというものではありません。
法衣に身を包んだ花園天皇の内面の叡智と深い静寂、そうして法悦のお顔でしょうか。
ものの見事に表現していませんか。
さてそんな日本における似絵の世界。
その頃、あの美術大国であるイタリアはどんな状況だったのでしょう。
日本が鎌倉の時代を迎えようとする頃、イタリアは長いヨーロッパ中世の帳(とばり)が明けて、ルネッサンスの春へと歩を進めていきます。
そんな、中世の薄暗い緞帳を開けて近世へと向かうその入口、イタリア中部の町アッシジにフランチェスコ・ベルナルドーネ(1182年~1226年)という托鉢修道僧がいたのです。
ジョット・デ・ボンドーネ(1266年~1337年)が描いたフレスコ画『小鳥への説教』という作品をみてみましょう。
聖フランチェスコが説教を始めると野の鳥ですら集まってきてフランチェスコの説教に聞き入った・・・とそんな逸話が題材になっています。
イタリアでルネッサンス文化の萌芽が見られる頃と、藤原画派が似絵で人物描法に新しい局面を開いたのが丁度、時を同じくするのです。
さて、西洋の美術も日本美術も、人を描くその対象は天皇、君主、公家、貴族、徳の高い僧侶・・・
そういった階級が描かれる対象でもありました。
ならば市井の男や女はいつ頃、絵の主題として現れるのだろう?
日本画では桃山~江戸初期にかけて、花見の酒宴や遊郭で遊ぶものたちの遊楽の光景を描いた風俗図が描かれるようになります。
例えば下記に挙げた屏風図。
つまり美術の中に、今現在の風俗が描かれるのですよ。
これが浮世絵を育む土壌ともなるのです。
では次回は、
“特権階級ではなく普通の人たちが画に描かれる”
そんな背景をお話してみたいと思います。
《つづく》