パトラッシュと歩いたホーボーケンの小径(4)
ネロ少年が憧れたルーベンスという画家は、いったいどんな人だったのでしょう?
ルーベンスの生い立ちを少し俯瞰してみましょう。
彼は1577年に両親が一時疎開していたドイツのジーゲンに生まれました。
父ヤンはオランダ総督の法律顧問を務めたこともある司法行政官でした。
ヤンの妻はマリア・ペイぺリンクス(つまりルーベンスの母君)。
このお二人の間に生まれたのがピーテル・パウル・ルーベンスです。
ですがルーベンスが10歳に差し掛かるころ父ヤンが亡くなってしまいます。
そうして母マリアと少年ルーベンスは、故郷のアントワープ(ベルギー)へと戻ってくるのですね。
さて、そんなルーベンスが成人して画業で身をたてようとする頃、スペインからの独立の道を歩むすぐお隣の北部ネーデルランド(オランダ)は、これからまさに海運国として世界に名を轟かせる黄金の世紀に入ろうとしています。
そんな時代、オランダの商船リーフデ号が日本の九州に漂着したというのです。
その船員の中にいたヤン・ヨーステンと言う人物。
この船員が初めて日本の大地を踏んだオランダ人なのだとか・・・。
ヤン・ヨーステンは随分と幕府からも重宝され、江戸城の内堀沿いに住むことを許されます。
ヤンは日本人の奥さんと結婚し、日本名を名乗ります(耶 楊子:や ようす)。
それからそれから、彼は今の東京都中央区八重洲(“やようす”が訛って“やえす”になったとされています)にその名を辛うじて遺すことになろうとは。
ヤン・ヨーステンこそが我が国とオランダとのおつきあいを考える上で、今まさにお芝居の緞帳が幕をあけたその瞬間を演じた名わき役のように思えるのです。
そんな時代、ルーベンスはまずは画業修行のためイタリアを目指します。
何故、音楽の道を志す人も美術に一生をかける人も、皆イタリアを目指したのでしょう?
それは、イタリアとは長い間、欧州の芸術をリードした国だからですよ。
天才たちがひしめき合った「文化の大輪 ルネッサンスの時代」(14世紀)は遠い昔の事といえど、まだまだ文化の香りかぐわしきイタリアから学ぶべきところはたくさんあったのですよ。
ヴェネチアで活躍したティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490~1576年)やパオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588年)。
ルーベンスも、彼らの油彩画技法や色彩の魔術に多くを学んだし、芸術の都ローマでも数々の芸術作品から研鑽の光に導かれました。
例えばルーベンスが何度もその人体表現を模写したこんな作品。
『ラオコーン像』。
一体、この彫刻の人物、三人は何をしようとしているのか?
ギリシア神話にも登場するトロイアという土地の神官ラオコーンとその息子たちが、今まさに海蛇に襲われ大ピンチなのですよ。
この作品はローマのバチカン博物館が所蔵する作品です。
どのくらい古い作品だろう?
制作されたのは紀元前160年ぐらいですって?
ということは、ルーベンスが生きた時代から更にタイムスリップしてみても、凡そ1700年くらい過去にさかのぼらなければならないのですよ。
ルーベンスがこの作品を何度も検分したり模写したのであれば、ギリシャ・ローマの時代に芸術分野における人体表現はかなり極みに達していたという事です。
私たちはすぐに過去と比較して、現代の方が優れた文明の中で日々の暮らしを送っている!とか思っちゃたりするでしょ。
実はそうではないと思うのです。
現代がその発展の度合いにおいて決して優位とは限らない・・・
その眼差しが歴史を検分する時の基本姿勢であるとも言えると思うのです。
さて、そのルーベンス。
イタリアはヴェネチア、ローマ、そしてマントヴァで絵画表現の多くを学ぶのですが、8年の滞在の後に母マリアの訃報に際し、故郷アントワープへ帰国する事となるのです。
現代に遺るルーベンスの名作と言われる作品は、イタリアからの帰国後に制作されたものが多いのです。
【ルーベンス作品の特徴】
ルーベンスの作品の前に立つ時、どんな事を思いますか?
何を思っても自由ですよ。
何故ならば、美術はアカデミーや学術機関だけの所有物ではありません。
だから私たち一般の参観者が「ピュアにどんなことを感じたか?」
例えばアントワープの聖母教会の大作。
『キリスト降架』と『キリスト昇架』。
あの大作の前に立った時、どんな感じがしますか?
背景の暗がりからひときわ照明を照らされたかのような、イエス・キリストのプロポーションの描き方。
ダイナミックな構図。
光と影の使い方が劇的でしょ。
聖母マリアの悲しみの涙に溢れた瞳の描き方。
もう官能的描写とも言えると思うのです。
まるでお芝居のハイライト場面みたいでしょ。
《つづく》