歌姫 フローリア・トスカとその時代(1) ~序曲~

歌姫 フローリア・トスカとその時代 ~序曲~

時は1800年、5月の事。

アルプスの雪どけが始まっておりました。

まばゆいばかりの陽を浴びた残雪の峰が研いだ刃のようにするどく光り、目を細めずにはいられないくらいでした。

ナポレオン・ボナパルト。この時30歳。

革命の最中、南仏戦線からパリへ呼び戻されたこの薄汚い身なりの将軍は、都のサロンで令嬢たちの失笑をかったのですよ。

だがその後、4年で執政官の職に成り上がったのです。

執政官とは、歴史作家・小説家の塩野七生さんの言葉を借りて言えば、「首相であり防衛大臣かつ戦時の参謀司令官」という存在だったのです。

この時から遡る事、11年前のフランス。

1789年7月14日。

パリ、バスティーユの城塞が暴動を起こした市民たちによって攻め落とされ、革命は本格化します。

ブルボン王家も、ほんの二代前には「朕は国家なり」の太陽王ルイ14世でしたが、今やルイ16世の時代。

栄華は見る影もありませんでした。

近代化を押し進める新政府によって、国王の権限は否応なく縮小されます。

どうにも嫌になった国王は、夜半にチュイルリー宮殿の隠し扉から王妃マリー・アントワネットと子供たちと数人の従者とともに馬車を駆って、王妃の実家であるオーストリア側への逃亡を企てるのです。

この背信行為が明るみになり、革命政府は「我が国王は他国に援軍を促した!」と、ルイ16世はパリに連れ戻されて幽閉されます。

市民たちも動揺。

「王制を廃止せよ!」という世論が沸きました。

近代化へ向けて、貴族にも、神の代弁者である僧侶にも、靴屋の親方にも、あらゆる階層にエネルギーがみなぎっていました。

オーストリア軍やドイツのプロイセン、それからカトリック教皇庁、全てのヨーロッパを敵に回しても怯むことがなかったのです。

王制廃止が決議されたのが1792年。

王と王妃たちがどのような慰めな結末を迎えたかはここで語るまでもありません。

政権を握った革命政府は、今度は反勢力の内乱を招き、革命は血で血を洗い10年間続きます。

この内乱を鎮圧したのがボナパルトというあの男ですよ。

革命前の身分社会なら、ただの薄汚い軍人にしか過ぎない。

だがもはや身分社会ではなかった。

実力のあるものがのしあがって来る、そんな時代なのです。

そうして冒頭の1800年。

フランス新政府のナポレオン執政は、2万8千人の兵と新緑深いパリを後にして、アルプス越えを敢行いたします。

いわゆるナポレオンの「第二次イタリア遠征」

ボナパルトのお抱え画家ジャック=ルイ・ダヴィッドがこの状況を描いています。

白馬に股がり颯爽とアルプスの峠を駆け抜けてゆく。

けれど実のところ、ラバに股がって軍を率いたのです。

だからこんなにかっこよくはなかった筈です。

この絵の舞台が、グラン・サン・ベルナール峠。

セント・バーナードという犬はこの場所で救助犬として飼育され、だから英語読みでこの名前がついたのだとスイス・ガイドにも書かれております。

この峠は現在スイス領内にあり、有数の山岳リゾートであるモンブランのシャモニーも目と鼻の先です。

話をもとに戻しましょう。

同年6月、ボナパルトはマレンゴの戦いでオーストリア軍を木っ端微塵にいたしました。

そうしてロンバルディアの平原に姿を現します。

ヨーロッパの旧秩序「神聖ローマ帝国」が、彼の一撃で瓦解するのも時間の問題というわけです。

各国首脳達は戦々恐々と震えるばかりでありました。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンという音楽家は、ウィーン古典派の先駆者でありました。

彼はウィーンの都にあって68歳。

この戒厳令下で「神よ、皇帝フランツを守り給え」と交響曲を作曲し、祈り、すがった。

つまりはこれがドイツ国歌の原曲です。

かたや、「ボナパルトこそが我が民衆の救世主だ」と歓喜したルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、この時30歳。

後にボナパルトが皇帝に即位した時、激しい幻滅と怒りを露にいたします。

そうしてボナパルトに捧げた曲を「エロイカ」と改名。

交響曲第三番に出てくる旋律です。

ルーブルとベルサイユで見るあの絵の場面を思い出します。

ローマ教皇から戴冠されるボナパルトは、自らその王冠を取り上げるのですよ。

そして傍らで跪く年長の女房ジョゼフィーヌにその王冠を捧げようとしています。

この絵もお抱え画家ダヴィットが描きました。

「彼の行動の全ては彼自身が皇帝になりたかっただけではないか。民衆の救世主などとはとんでもない。」

そうしてベートーベンは書き上げたばかりのスコアを破りすてたのだとか・・・。

第二次イタリア遠征の2万8千人の兵の中にとある若い兵士の姿がありました。

軍人としてはさしたる功績もなかった、というより馬も剣もろくに操れなかったから、後にジャーナリストへと転身したのは当然のなりゆきでしょう。

この若者はボナパルトに傾倒し、従軍の経験をもとに後に小説「赤と黒」を書き上げます。

彼はペンネームでいうところのスタンダール

時に17歳でありましたそうな。

イタリアはどんな情勢だったのでしょう。

地中海交易と金融で、ルネッサンスの我が世の春を謳歌したのはとうの昔の事。

今や他国の蹂躙を受け、長靴の形をした半島は継ぎはぎだらけ。

北部と中部はオーストリアの圧政に苦しみ、ナポリを中心とするローマ以南はスペインの間接的な支配を受けています。

ローマ周辺はカトリック教皇庁の土地を有し、何とかヨーロッパ文化のリーダーの体面を辛うじて保ってはいたが。。。

ジャコモ・プッチーニの歌劇「トスカ」はそんな時代を背景にした歌劇であります。

《つづく》